航海 恵奈とは幼なじみと言っても、つるんでいたのは中学までで、高校が分かれてからはほとんど顔を合わせていなかった。 2年の秋の終わり。 バイトから帰った俺を迎えたのは、沈んだ顔の母親と冷めた夕食、そして彼女の訃報だった。 登校中の小学生の列を避けようと急に車道に出て、転倒。 そのままトラックに撥ねられたらしい。 こんな時になって、昔からよく転ぶ奴だったなと思い出す。 誰を恨むこともできず、ただ、今は、取り乱すでもなく事実を認めている自分がとにかく腹立たしかった。 せめてその場から逃げるように部屋に戻る。 上着を脱ぎ、ベッドに腰かけるまでのほんの短い間に、普段は目に付かないところにしまってあった記憶が少しずつ、蘇るのを感じていた。 壁のコルクボードも、その裏に掛けてあるアクセサリーの類も、気付けば恵奈のプレゼントだった。 お返しとは言えないが、歌の好きな彼女のために、上手くもないギターを弾いてやったこともある。 恵奈のために、歌を。 もう叶うことのない、想い出。 無意識にギターケースに伸ばした手を、慌てて引っ込めた。 こんな時間じゃさすがに近所迷惑だと思う冷静さが、さらに自分を苛立たせる。 俺は散らかった机の上のイヤホンを乱暴に掴み、勢いよくスピーカーに差した。 突然、耳に響く特大音量。 バイト先の先輩に借りたCDだ。 出がけに切り忘れていたらしい。 そのまま横になると、俺は堅く目を瞑った。 ――瞳を閉じる奥に浮かぶ人がいる かつて争い 今は凪 志は同じ―― 恵奈が女子校に行くと言い出した時は、驚いた。 進路はずっと一緒だなどと考えていたわけではないが、少なくとも突然だったから。 幼い頃のように、ケンカもできず。 大人しく彼女の夢を励ますこともできず。 その日から会話と呼べるものは、なくなった。 置いていかれるのが怖かった。 どんなにからかわれても俺が守ろうと思っていた、その頼りない肩に。 今思えば、それはどんなに些細なことだっただろう。 恵奈の合格発表の日、俺は学校を休んだ。 結果などわかりきっている。 祝福と羨望と期待の眼差しに、控えめな笑顔。 そんなもの、見たくもなかった。 ――Sail away 君の横にうずくまる夏が ホラ 幸せの顔で手を振った―― 卒業式から少し過ぎて。 友達の家から帰る途中で、偶然恵奈に会った。 狭い十字路のすぐ向こう側に、自転車を引いた彼女がいる。 まだ冷たい春の始めの夕闇の中で、まるで俺が気付くのを待っていたように。 気まずくて、背を向けるしかなかった俺に、彼女は笑いかけた。 空の薄暗さにかき消えそうな、せつない微笑を。 その「笑顔」を。 ただ、俺に見せるためだけに。 確かに恵奈は笑ったんだ。 ――Keep on You got to keep on walking 言葉では上手く言えない 悲しみを道連れに―― 最後の笑顔などという言葉は、その情景には似合わない。 俺が彼女の目をまっすぐに見なくなった日から。 もちろん幼い頃から、恵奈はずっと笑いかけていたことに。 そして自分はずっと気付いていたことに、今気付く。 あの時俺が振り向いていたら。 彼女の声を、ひとかけらでも聞いてやったら。 こんな気持ちになることはなかったのだろうか。 いや…過去のどの選択も、俺にはどうでもよかったのかもしれない。 「現在」、恵奈に俺の声は届かないのだ。 ――もし俺が今ここで倒れたとしても 愛する者よ夜を往け 誰にも等しく時は流れるから―― …同じじゃない。 俺の時間は進み続けるが、恵奈の時は止まったままだ。 なぜなら俺は生きているから。 彼女は死んでしまったから。 俺は此処にいる。 彼女はもう、戻らない。 曲は間奏に入った。 歌詞の伝えるメッセージが途切れ、そこにはただ柔らかい旋律があった。 誰かが誰かの死を悼み、生を見守る。 まさに生命の炎を吹き消された瞬間、彼女は何を考えていたのだろう。 身を裂く痛みの中に放り込まれた彼女のために、俺は何ができた? 初めて、ひとしずくの涙がこぼれた。 俺は、しかし、高みからそれを眺めているような気分だった。 呆然としている自分から、俺が抜け出して。 なのに、濡れた枕がいやに冷たい… 混乱しだした俺の思考を溶かすように、もう一度優しげで哀しい声と言葉が降りてきた。 ――Sail away 時として愛は無慈悲なもので 君を打ちのめす波に出逢っても Sail away 独りきり月に照らされた者は 誰より生きる強さを胸に秘め Keep on You got to keep on walking 求め合い 愛し合い 奪い合い 与え合う Keep on You got to keep on walking ここからは連れて行けない レクイエムが叫ぶ―― 恵奈。 彼女は見ていてくれたのかもしれない。 自分とは違う道を歩き続ける俺のことを。 同じく俺も、姿は見えない彼女の笑顔の影を、知らぬ間に追っていた。 一瞬、伝わってきた心の行方を、自分の中で探していた。 誰よりも強く、生きていたのは恵奈だった。 つかみどころのない、不器用な微笑み。 そしてそれが絶えた今、恵奈は言う。 「ここからは連れて行けない」 俺は、彼女と同じ道を選ぶことはできない。 でも、同じ空を見つめていたかった気持ちを、想い出を、消すこともできなかった。 あの頃と、何も変わっちゃいない。 俺も、恵奈も、大人になりきれないまま。 それでも何かが、変わってしまったのだ。 もう少しだけ、…あと少しだけ、お前の影を見つめていても、いいか? それを胸に焼き付けたら、ちゃんと歩き始めるから。 大切な誰かがいなくなる…死ぬというのは、そういうことなのかもしれない。 翌週のバイトが終わった後、先輩にCDを返すと、彼女は一番に尋ねてきた。 「佐倉くんは、どの曲が良かったと思う?」 「俺は…えっと、5曲目の…奈摘さんは?」 俺が曲名を思い出せずにいると、彼女、藤井奈摘さんは穏やかに笑って、言った。 「私も同じかな…『航海』」 どこかで見たような寂しげな表情。 俺は黙ってしまう。 「なんか、懐かしくなるよね」 何とも言えない声音に、追い打ちをかけられて。 手に取った歌詞カードが、机の上に落ちた。 奈摘さんは苦笑して、静かにそれを拾い上げる。 そして何も言わないまま、俺たちは店を出た。 ふいに菜摘さんが呟く。 うつむいた俺を気遣ってか。 もしかしたら、自分自身にも、深く突き刺すように。 「人は弱いけど、失っても失わないものがあるから、生きていける」 はっと彼女の顔を見上げる。 それは、言葉ではない。 しかし、決意を灯す瞳の向こうは、涙で滲んでいるように思えた。 誰もが、越えていく。 人生という名の長い長い航海を。 波間に頼りなく揺れる小舟が俺であるとしたら。 恵奈、お前は全てを柔らかく照らす月でいてくれないか? これからも、見ていてほしい。 お前のように、強く歩いていくから。 俺は、忘れない。 何があっても。 お前の淡い光を、ずっと… 「…ありがとう、聡之」 「恵奈…!?」 急に叫んで振り向いた俺を、菜摘さんの瞳が不思議そうにとらえる。 自転車を押しかけた手を止めて、意味も分からず吹き出す。 そう、その表情だ。 恵奈は確かに、笑っていた。 夜の街に、風は吹いていなかった。 少しだけ欠けた月が、ただふわふわと微笑んでいた。 同タイトルのGLAYの曲を引用。 |